シメジシミュレーション----------------「名前がつくということ」「自由であるということ」何かを類型化して総括したような気になるのが得意です。これは私に限らず、多くの何某かに触れるすべての人間が大なり小なり手に持つ能力です。日々新語は増えて、風景は変わって、商品は発売されて、人は死んで、道は均されます。とても慣れた、生活の前進です。世界は、日々自由になっているでしょうか。私たちは言葉に囲まれて生きています。足場の安定したコンクリートとアスファルトの上に立っています。シュルレアリスムという少し昔のとある思想があります。かつて言葉を自由にしようとした人によって謂われた考え方でした。はじめそれは自動筆記によって書かれました。交わるはずのなかった言葉が交わり、連関を持ち、散文とも詩とも純文学とも違う、でもその全てであるかのような実験でした。あるはずのないことが当たり前のように起きて、でも文法や単語のパーツは維持される。それはゲームのあるべき構造を持っていました。結果としてこの運動は色んな媒体に展開されていって、そしてやんわり終わっていきます。今では古典的で、懐古主義とも揶揄れます。さて、世界は自由になっているでしょうか。あの時から今まで、現代美術はあるときまで破砕と分解の限りを尽くして前進しました。今、身の回りを見渡してどうでしょうか、世界は壊れているでしょうか。名前がないものに囲まれているでしょうか。私たちは何を選び取って生きているでしょうか。シメジシミュレーションは百合漫画です。あ、まってください。ブラウザバックしないで。でも全景を指す言葉として他に適切なものがあまりないのです。所謂セカイ系と形容できないくらい、これは構造のお話だと感じられたのです。よくあるお話ではあります。すこしおかしな特徴をもつ主人公とその周縁の人たちのちょっとファンタジー学園日常モノ。ですが、各単話の示唆する事象がひとつの構造のもと展開されているのです。それは伝達が具現化したり、学校が縦になったり、地球に穴が開いたりするような。主人公の姉は、世界が自由になることを望みます。ですがそれは”そこ”からの脱出でもなく、”全て”の破壊でもなく、ただ前に進んで願った後の、ただの結果でした。マトリックスもエヴァンゲリオンも彼女の望んだ結末ではなかったでしょう(これがセカイ系で言い表せない所以であるとも思います、彼女は哲学者でも科学者でも数学者でもなく、芸術家でした)庭師さんという世界の維持者は、今ある世界の継続を望みます。これはいろんな創作物に出てくる彼らとは少し違う感性を持ちます。彼女もまた願いを持つ者でした。恐怖や諦観から現状維持をするわけでなく、ただ望んだ世界のために動きます。そしてある程度の自由を許容し、最期には崩壊も受け入れます。最期まで彼女がこの世界の外側を知っているかは語られませんが、自由の虚しさを知っている人ではあるように思われました。何でもできることは、何もすることが無いのと同様です。秩序を重んじ構造を信奉する姿は姉と本来敵対するはずではなかった数学者や科学者に近いものに見えました。世界の自由にはバランスがあるのかもしれません。さて、実は上記の構造主義っぽい話は本質でありません。嘘です。実際のところは分かりません。でも彼女らの喧嘩の只中で主人公は多くの”分からなさ“に対峙します。主人公は彼女のまじめちゃんを含めた内側の”外の世界”に少しずつ向き合います。何か正解を求めたり、前進したり、懐古したり、それらをひっくるめて全部が”わからない”ことに対してとても内向的に、でも外発的に誠実であることを、それを望んだのです。この関係性はもう...こうね...ここを私は百合って言ってるんですけど、それは性別とか在り方とかじゃなくてもう...めちゃくちゃ尊いじゃないですか この関係性そのものが (誰かを受け入れるってとても重いと思うんですよね、しかもこれは物理的にというか形而上学的にな感じなので尚更(絵はこれができるのでとても良いな と思います))わからなさに向き合うということ。今これがとても大事なことな気がしています。もう、自由屋さんと秩序屋さん(便宜的にこう分類しますけど)の相容れなさを差し置いても前が見えづらいと思うのです(そりゃ仲が良かったらそれに越したことはないかもですが)でも、根源的な”わからなさ”に対峙するのもわりとあるべき道なのかな...とも思うのです。4,5年くらい名前をつけるのが怖いと言い続けているのも大枠同じことです。(“それ”のための”それ”になるのが自由だと思っていたのが去年あたりで、シュルレアリスムもシメジシミュレーションもそれの後なんですよね知ったのが(遅い) とてもとても嬉しかったのですよ、先人が居るのが)そういう感じでシメジシミュレーションが大好きになったのでした。好きなものの話でした。
旅(旅行)----------------文章を読み返すと直したくなりますね。読み返すたびに文章は勝手に変わっていて欲しいです。確かさが無い遺書って憧れますよね。答えが複数ある遺書を残したいです。今日のお題はこちら、旅です。皆さんは旅をしたことありますか。これはどこでも良いのですが。いくつかの場所に行って(これは実空間限定かもです、本とか映画とかゲームは無しで)旅みたいなことをして、思ったことがあります。嘘ですね、いくつかの場所に行く前から薄々気づいていたことです。多分私は旅をする意味があんまり無い。というより、私は行きたい場所が無いです。大きくなるにつれて、私たちの移動範囲は広がります。部屋の隅から隅。砂場から滑り台。学校から隣町。都市から都市。そしてどこにでも行けることを知って(知った気になって)本当に行きたい場所を考えて、本当に分からなくなっていました。まず、私が行きたいと思う場所は、私の行きたい場所ではありません。これは、私の論理の中で閉じた"行きたい場所"っていうレッテルです。ここで得るものは大してありません。実績とかでしょうか。次に、大して関心のない場所はどうでしょう。偶発性に任せる旅というのもあります。が、であればこれは移動を必要としません。偶然を体験するのに遠くへ行く必要は無くて、むしろ逆効果で、多分机の下で掃除とかしてた方が良いです。色々と発見があると思います。まぁ無いかもですけど。その点でどこでも多分同じです。確率は。これは「日常の中にこそ〜」みたいなことでは無くて、どことか関係なく大してなんも無いし、結構なんでもあるよ、という話です。だから別に旅はしても良いのです。でもしなくても変わらなくて、だからこれは手段ですら無いのです。味付けの違いみたいなものかなって。甘いのもしょっぱいのもきっと対等です。適当なこと言いましたね、これは無しで。でもイタリアでベッドのフカフカさを知ったり、自分の部屋で彫刻の重みを知ったりするので。どこでも良いのだな、とは思いました。今はまだ。
美術館で写真とるやつ----------------こういうのって連続で書くと速攻で書かなくなりますよね。間を空けてぬるりと続けると惰性になりますよね。小学生の頃読み漁ったブログも今は見る影もないものが多いですが、あれが少しわかります。年を経ればより分かってしまいそうでキモいですね。今日のお題はこちら。美術館で写真とるやつです。"やつ"はあれです。事象です。なんか、不思議ですよね。悪いとかではなく、単純に意味が分かっていないのですが。あ、嘘です、インスタとかtwitterとかに載せたいですよね、分かります。いやそうではなく、現象としてずっと理解できないままなんです。これは、なんなんでしょうか。例えば、絵ってみんなにとってなんですか。見て感動するとかですか。こう、解説を読んで納得するとかですか。そういうのもなくてもっとイベント的な感じですか。どれもまぁ情報としては納得できます。え、それそんな楽しいですか。なんかボーリングとかやってた方が楽しくないですか。あ、皮肉じゃなくて。じゃあ絵は目の保養として、彫刻とか。もうなんか綺麗とかでもなくないですか彫刻って。上手いとか?周縁の現代アートなんかどうですか。あれ撮ってなんかありますか。不思議ですよね。でもこれって美術館に限らずですね。正確には、実は撮ることがよくわかっていません。よくあるあれだと、記憶は忘れるから撮って記録するらしいです。では、それで思い出して何があるんでしょうか。何かを思い出すって必須のことではありません。生きるのに不要です。なんなら邪魔だったり。故人であればわかる気がします。友人家族も、人生の節目もまぁいいでしょう。美術館って何ですか?まじで思い出して得無いくないですか。美術館に来るって何ですか、みんな何しに来てますか。まぁほとんどの人は来ない場所ですが、来てる人はなんなんですか。こんな意味不明な行為に時間を使えるくらい何か確固たる理由をみんな持ってるものですか。実際はこれも嘘で、何かに行くとか来るって何ですか。ここがずっとずっとわからなくて。ここに一度でも対峙した人の割合てどれくらいでしょうか。知らなくても回ってる世界が一般でしょうか。私が知らないだけ?
多数決
----------------文章を書くことに挫折してもう数えきれないほどです。どれだけプラットフォームを変えても続かないし、億劫だし、何より自分でも読み返さないことが分かったので。分からないものについて書こうと思いました。Twitterで書きたいことを書けないの、滑稽ですよね。今日のお題はこちら。多数決です。この12%の人達。とても信頼度が高く見えます。なぜでしょうか。88%の人達は何を考えていたのでしょうか。このアンケートを作った段階で、noteが多数を占めることは分かりきっていました。次点はバラけるだろうと思っていました。ので3番目にnote、特殊枠一番下、捨て枠順不同上2つ。おおよそそのとおり機能しました。noteは知名度が高く俗的です。故に私のフォロワーに多そうです。各ブログサイトは一定数の固定ユーザー(愛用者)が居そうです。個人サイト、これが問題です。これは一番俗っぽくないです。かつてのweb漫画サイトのように自己満足と神話性の体裁を保ちます。このアンケートを作った段階で私はこの文章を書いており、結果如何に関わらず個人サイトにするつもりでした。noteに投票した人の8割程度はこの文章を読まないであろうと想定します。また個人サイトに投票した4割程度はこの文章を読まないと想定します。投票せずスルーした人の3割がこの文章を読むと想定します。(エンゲージメントから推定します)ここに無文脈の人、数名を追加します。約50名と想定します。ここまで読んだ人は20名程度でしょうか。ここまで読む人は、それなりに私と親しいか、私が気になるかです。内容に興味のある人はいないでしょう。それは偏に信頼度故だと思います。私が面白いものを複数つくれば、次も面白い可能性が高いでしょう。Twitterはフォロワーを選別し続けます。気づけば私にリプライをする人が消えました。コントロールは簡単に行えます。12%の人たちと高い確率で馴れ合えます。多数決とは何でしょうか。これは何を持った機能でしょうか。